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#MGM2 .23 #2コマ漫画 16 「おうちかえる」awekan?

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「おうちかえる」awekan

 本作では下描きの立方体は壺として表現されています。
 地面の稜線は部屋の床として表現されています。部屋の床は普通水平に作られるのでこのように盛り上がって壺や人の接地面を隠すこことはないのですが、このような床の表現は「もも子探偵長(1958~59年作)」など古いまんがの他、最近では「へうげもの」などで見られます。
 あるいはこの黒い地面は建物の断面図であるか、階段の一番上の段を表現しているのかも知れません。階段であった場合は真黒ではなく垂直の面であるということを示すハッチングと、背景と調和の取れた木目が欲しかったところです。
 壺と主人公の両方とも稜線の向こう側にあるようですが、壺のほうがカメラに近く大きく、主人公のほうが遠く小さく描かれているように見えます。
 ただこれは、壺というものは手で持って使う大きさのものという常識から判断されるものであり、接地面が描かれていない以上両者の存在位置は確定できません。壺のほうが、人が入るほど常識はずれに大きく、主人公と同距離か遠くにある可能性もあるからです。

 二齣目は、ドアノブを握る手のアップが描かれています。これは映画のモンタージュのような映像的な表現であり、このような、対象物→対象物の一部のアップという齣割りがなされた例は二例だけです。この齣割りは、主人公と壺から手に画の中心が移ったということで、マクラウドの齣割り六分類における三)被写体変更とも取れますし、一齣目から場面が移ったということで四)場面転換とも取れます。

 この手は誰のものでしょうか。この質問に、まんがを読み慣れている人が100人いたらまず間違いなく100人とも同じ答えが返ってくるはずです。まんが文法から考えると、この手は一齣目の主人公の手であると解釈されます。
 しかし、一齣目と二齣目は齣枠の間にある間白で分断されていて、背景も全く違う、いわば異世界であるのに、なぜ二齣目の手の持ち主は一齣目の主人公と同一であると感じられるのでしょうか。
 それは、
 ・このまんが世界には壺と主人公しかない。アクションの主体はどちらかであるはず(前提)
 ・壺に手はない(メタまんが的知識 ただしまんが内では壺に手が生えているキャラというのもありえる)
 ・「おうちかえる」というタイトルから、一齣目の主人公は「帰る途中の人物」というロールを持つことが読み取れ、それは二齣目の「ただいまー」という科白に示される「家に帰るために家のドアを開ける手」というロールと矛盾しない(ロールの一致)
 ・一齣目の主人公は右居左指であり、二齣目の手も右居左指である(ベクトルの合致)
 ・一齣目の主人公の服の袖と、二齣目の主人公の服の袖のデザインが同じ(デザインの合致)
 これらの理由によります。
 もし、この手が一齣目の主人公の手でないのならば、このまんが世界に存在しなかった何者かが突然現れたということになります。確かにまんがでは、フレームの外に何がいるかはわかりませんし、ものが虚空から突然現れる魔法も許容されています。しかし、一齣目において読者はこのまんが世界には「壺と主人公」という二要素しかない状況を読み取ります(背景は背景として柱や彫像などの各要素は無視されひとまとめに認識されます)。読者は恐らくこの後この壺と主人公から何らかの物語が語られることになるのだろうなという、物語のバックグラウンドを感じます。これがコンテクストです。そのコンテクストを無視して文脈の外から何者かの手が現れた場合、読者は裏切られたと感じます。
 袖のデザインが同じであるなどの要素は同一性を示す根拠としてはレベルの低い副次的なものであり、たとえ一齣目の主人公の服装がノースリーブで二齣目も袖のない腕だったとしても、読者は二齣目の手は一齣目の主人公の手であると認識するはずです。逆に言うと、一齣目と二齣目で袖のデザインが変わっていたとしても、読者はコンテクストを優先するということです。齣の前後でキャラの服装が違うというのは、アシスタントを使うまんがではまま見られますが、ほとんどの読者は気づかず読み進めますし、もし気づいたとしても単なる描き間違いとしか思いません。コンテクストを無視して、袖のデザインが違うからこれは突然現れた違うキャラの手なのだと主張することはまんがでは不可能だということです。
 ただしもちろん、後の齣を用いて新たなコンテクストを構築しこの手が持つ意味を変えることは可能です。三齣目で主人公と似たようなファッションをした兄が登場することにより、この手が実は兄の手であり、家のドアの前で兄と弟?がちょうど出会ったところだったという展開はあり得るかと思います。
 ですが本作の場合は二齣しかないので、まず間違いなくこの手は主人公の手であると読者に認識されるでしょう。

 二齣目でドアノブを握る手は右手です。もし左手を伸ばしていたとしたら、ドアノブより手前に左手が映ることになり、ドアノブが隠れてしまいます。なので右手を伸ばしているというのはまんが技法の基本を抑えた優れた感覚が表れているところなのですが、であればできれば、一齣目の主人公の手足を鏡像対称に、つまり右手を前に出している歩き方にしたほうが良かったかもしれません。何故かと言うと、一齣目で右手が前に出ていれば、その右手の形が二齣目の右手の形と似ることになり、二齣目の手は一齣目の主人公の手だという同一性を補強する一つの材料となるからです。

 また、二齣目はドアが少し開いている状況を描いているのだと思いますが、できれば、壁とは垂直に折れているドア枠の面を表現すると良かったかと思います。このハッチングの腕があれば充分にできることだと思います。さらに言うなら、ドア枠にドアのラッチが嵌まる穴まで描くと説得力が出ます。 

 いずれにせよ一齣目にドアは描かれていないので、主人公は一齣目には映っていないどこかに移動したことが示されています。タイトルからするとこのドアが主人公の自宅のものなのでしょう。

 このドアはどこにあるのでしょうか。
 齣が並べられていると、作者が無関係だと思って描いたものであろうと読者は関係性を生み出します。
 一齣目において壺が意味ありげに置かれている以上、この扉は常識はずれではありますが壺に付いているもので、画面の奥側にあるため一齣目からは見えない扉のついている部分を開けて主人公が壺という自宅に帰った、という状況を読み取ることもできなくはありません。
 あるいは画面左側を行った先にドアがあるのかもしれません。しかしそう解釈すると、壺がまったくの無意味だったということになってしまいます。先に述べたように、読者はこのまんが世界には主人公と壺の二要素がある以上、その両者が関係性を持つものと期待します。劇作家チェーホフは、第一幕で銃が壁にかけてあったなら、第二幕でそれは発砲されなければならないと書きました。これは物語の中に出てくるオブジェクトは全て関係性を持ちストーリーに関わってくるはずであるということを示した理論ですが、本作においては壺がこれに当たります。
 この壺が何なのかはどこかで必ず出てくるはずです。この齣よりも後に続く三齣目、四齣目があったならそこで語られるのかも知れません。

 本作は背景の描写が見事です。木造住宅であり、曲がった木を窓枠に使っているところなど、とても高度な木工技術が用いられていることがわかります。しかし窓にガラスはないように見え、ここは技術水準が中世ほどのファンタジー世界なのかもしれません。窓の外は青空が広がっており、木造にしてはかなり高い建物か、丘の上などに建っているようにも見えます。植物をモチーフにした民族的な装飾から、植物を尊び木工を得意とする種族が建てたのかも知れません。丁寧に描かれた背景からは、膨大な情報が読み取れます。
 定規で引いたような直線ではなくフリーハンドで描かれた線は温かく、線も完全な水平や垂直ではなく微妙に傾いているところが、年を経て自重に傾いだ神社などの古い木造建築を思わせます。
 単に描写が細かいだけでなく、背景の統一感が見事です。主人公の右にある彫像は、恐らく木彫りだとは思いますが、壁や柱と描画法が統一され、背景に溶け込んでいるので、この像は単なる背景の装飾の一部であり、これが何か特別なロールを担うということは読者は想像しないでしょう。
 逆に、壺は壺だけの特別な描画法で描かれており、背景と区別され特別な存在であるように見えます。この壺は背景ではなく、何か特別なロールがあり、ここに存在する意味があるのだと読者は期待します。それに意味がないということは読者にはなかなか理解しがたいと思います。
 壺にも背景と統一感のあるリアルな描き込みがあり、またさまざまなオブジェクトが壺の周りに置かれていたのであれば、特別な意味はない主人公の手前にある背景の一部として読者に捉えられたでしょう。
 主人公は背景の圧倒的な描き込みの中に多少埋もれていて壺より目立たない感じもあり、外側の線だけ少し太くするなどしたほうが見やすく主人公であることがわかりやすかったかな、とは思いますが、それでもこれが血の通った人間であり木彫りの彫像でないということは、背景より濃い線の調子からよくわかります。

 背景の圧倒的描き込みが世界観を醸し出す美しい作品だと思います。
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